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海の
「どこかへ逃げよう」
穏やかな声が、鼓膜を揺らした。
「二人で、ずっと遠くへ行こう。誰も知らないようなところへ」
大きな掌がわたしの冷えた指先をさらった。晴れた日の海面を思わせる黒い双眸が、戸惑いの表情を映しだした。
「さん」
わたしの名を呼ぶ彼の声が好きだった。ぼんやりと影を落としていて、不鮮明で、でも決して揺らがない芯がある、そんな彼の声が好きだった。
わたしが言葉もなしに、ただ一度だけ頷くと、零れ落ちそうな瞳がゆっくりと細められて、手を繋ぐ力が少し強まった。
よかった、と消え入りそうな声が零れ落ちる。それは今にも泣き出しそうなほど、
ような
誰もいない駅を沈黙、そして霧。それだけが支配していた。わたしは、わたしよりも少し背の高い久々知くんの顔を見上げた。隣に立った久々知くんは、たった一言だけ、静かだなあと呟いた。
やがて遅れて来た電車に乗り込んで、流れていく景色を二人で眺めた。二本の手は繋がれたままで、その間には温かな熱が包み込まれている。
ガラス窓に映った彼はビイドロの瞳をそっと滲ませて、時折目線が合うと微笑んだ。
「寒くない?」
「ううん、平気」
「そっか」
車内は暖房がかかっているはずなのに、彼のほうがずっと寒そうだった。俯いた際に垂れた黒髪は、水を吸ったように艶めいている。長い睫毛が影を落とす。
ひと
時の流れをまったく感じさせずに鉄の塊は走り、そして辿り着いた。
無人駅の改札をくぐってすぐの、人の気配が見当たらない砂浜に、わたしたちは立った。
見つめる遥か遠くに水平線が横たわり、空の青と無言で溶け合っている。どちらが天でどちらが地なのか、わたしにはとても判別できなかった。
潮を含んだ風を受けて、反射的に片手で腕を抱くと、ふっと繋いだ指が解かれた。
「さん、おれの上着、貸そうか」
「ありがとう、」
波のさざめきの中、久々知くんの手から受け取ったジャンバーがひらりと舞う。それに身をくるめると、じわりと優しい体温が染み込んだ。
顔をうずめると、せっけんの匂いが香った。
「きれいだね」
見上げると、眩しそうに彼方へ視線を送る久々知くんの姿があって、彼の着ている白いワイシャツが風に遊ばれていた。
わたしは胸の温かさにそっと目を閉じた。
「さん」
彼の声が好きだった。まるで大事なものを扱うみたいに、ありふれたわたしの名前を呼ぶ、彼の声が好きだった。
この心地よいテノールの声を、わたしは脳へとしっかりと刻み付けたのに。
わたしを抱きしめるときの温かな腕だって、全部、ぜんぶ、覚えているのに。
「世界中で、おれたちふたりっきりみたいだね」
振り返ると、灰色の堤防がぽつんと列を成して佇んでいた。それ以外には何もなかった。一つ分の足跡だけが、点々と残っているだけだった。
「……久々知くん」
もたげた不安が、わたし自身を揺り動かした。
両手を伸ばして、彼の名前を呼んだ。返事は何もない。
砂に足をとられながら、前へと進んでいくうち、鼻の奥がつんと熱を発するのが分かった。
堪えようとも、ぼろりと一粒投げ出された雫がそれを許さない。ついにわたしは転んでしまった。
温かな液体がわたしの頬を濡らして、足元を湿らせても、ずり落ちたジャンバーがぐしゃぐしゃになってしまっても、久々知くんは迎えにきてくれなかった。
青い布切れを抱きしめながら、わたしはわんわんと子供のように泣きじゃくった。
「これじゃあ返せないよ。ジャンバー、返せないよう。くくちくん、」
喉があつくていたくて、声が詰まった。清潔な匂いが消えていくのを知った。
涙を拭うてのひらは、既に冷え切っている。
でした、
(09.01.10)