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移ろう季節は、足を止めてなどくれない。
ひとは翻弄され、惑い、それでもなす術などなく呑み込まれていくばかりだ。
ただそれは不満というにはあまりにちいさなことだから、だれも抗議しない。おとなしく歩いていく。
わたしは、最近はずっと耳を塞ぎ座り込んだままでいるけれど。
黙って横に座っていた久々知くんの温度は、もう、ない。
「すっごいねえ」
わたしは惜しむことなく広げられたテストの結果をみて、感嘆の声を漏らした。
ほとんどが満点に近い状態の全得点。堂々の一位。
おめでとうとわらうと、久々知くんもありがとうとおだやかに笑みを返してくれた。
しゅんかん、なぜか鼓動が不自然にはやまり、わたしは頬をひきつらせ、視線をおよがせた。
だいぶ見慣れた顔を、正視できないだなんて。いったいなんだというのだろう。
「あ、じゃあ、鉢屋くんは」
「オレがなにか?」
「……うわあ……」
腐敗した空気をかもしだす彼の目つきは危うげである。
指一本でも差し出そうものなら、またたくまに食い千切られてしまいそうな。
雷蔵くんは困ったような笑顔をうかべて、ハチはにこにことわらっている。
「はい、三郎の負けー!」
「うっせぇハチ!しんでこい!」
「うわひっど!おい、聞いたか今の発言を!」
そそくさとわたしの背後にまわるハチに、鉢屋くんがぶちぶちと血管を切らしながら、てめぇこんにゃろう!とわめく。
こまったものだなぁと二人にはさまれながらおろおろしていると、雷蔵くんが彼らを一喝して、その場は本来の雰囲気をとりもどした。
「それにしても、兵助すげぇよなー頭よすぎっつーかさ」
「お前英語赤点だったっけ」
豪快にわらっていたハチは、それを聞いていっきにしょげかえった。
こら、と雷蔵くんが鉢屋くんを殴りつけて(雷蔵くんは優しいけれど、鉢屋くんに対する扱いはなかなかにひどい)鉢屋くんは悶絶する。
いっぽうでは落ち込んでいるハチに向かって、久々知くんが自分が教えようかと尋ね、感極まったハチに抱きつかれていた。
そんな光景を眺めながら、わたしは、あの輪の中に自分と久々知くんが入っていることがとてもおかしいように思えた。
ほんの少し前までは、ふたりきりであったというのに。
(なんだというのだろう、)
細かく針をさすようないたみが尽きることはなく、泥を掻き雑ぜたような苦味が失せることもなく。
この空間はきっと、わたしなどが汚していいものではないのだ。
「どうした。んな顔して」
「、鉢屋くん」
ふと気が付くと目の前には鉢屋くんが立っており、わたしを見下ろしている。
かたまっていると、何を思ったか鉢屋くんはとうとつにポケットを探り出した。
「ほれ」
「……アメでほいほい釣られる女じゃないよ」
「うそつけ」
口の端を持ち上げた彼に返す言葉などなく、わたしはてのひらをさしだした。
そうしておとされたそれらを手の中で揺らしていると、今考えていたことがとてもばかばかしいことのように感じられた。
「ありがと、鉢屋くん」
「ん」
ぐしゃぐしゃと頭を掻き撫ぜられ、髪がめちゃくちゃになる。
ここで抵抗の意を示したところでどうせ彼は聞いてくれないのだろうと分かっていたから、おとなしくされるがままになっていた。
「……なあ」
ふいに手をとめた鉢屋くんが、ぽつりと言葉をもらした。
わたしと視線があうと、目を逸らし、なんでもないとつぶやく。
鉢屋くんとは、最初のころよりはだいぶ親しくなって、笑いあうこともふざけあうこともできるようになったのに、やはりどこか壁を感じた。
自分と相手をはっきりと区別して生きている彼を、引き込もうとは思わない。
ふらふらとしているようで、じつのところ鉢屋くんの足は地へと縫いつけられたまま、一歩も動くことが出来ないのだろう。
なんの根拠もなしに、わたしはそう感じていた。自分がそうであるから。
今、わたしにもっとも近しい存在は鉢屋くんであり、久々知くんはより遠い存在となって、手をのばしても届かぬところまで行ってしまったように思える。
何故このような疎外感に似た気持ちを抱いてしまったのか、答えが返ってくることはない。
彼と交わす言葉が何の意味ももたないと知っていても、わたしはそれに救われていた。
何に追われているでもない、それでもせきたてられ、己を見失っていくわたしがこわかった。
ただ呼吸を繰り返すだけで、存在が確立してしまうのなら、いっそ喉をかききってほしいとさえ思っていたのだ。
あの日久々知くんがわたしにほほえみかけるまでは。
(09.05.06)