もう行っていいぞ、とはちやくんはわらった。悪かったな、とも付け加えて。 わたしはその声を聞いて(それはいつもと寸分も違わない声であったのに)、むしょうにさみしく感じた。 何故だろう。 あのひとは、おまえとオレは似ているといったけれども、彼はわたしなんかよりもずっと、孤独で、自分をもてあましているように思われた。 まるで狐のように、周りを、己をあざむいて生きている。 そして、すこしたのしそうに、とてもさみしそうにわらう。(ああ、そうか、) わたしは足を止めて、さびれた扉を振り仰いだ。

はちやくんは、きっと久々知くんと同じなんだ。















教室にはいると、がらんとした中に、ぽつんとひとり久々知くんがすわっていた。 こちらに気付き、ゆるくうねった髪を揺らしながら、わたしの姿をぼんやりと見つめている。 その濁りを帯びた瞳をみて、ふとはちやくんを思い出した。なぜだか胸の奥がぽっかりと沈んだ。
「教室にいないから、帰ったかと思った」
「帰らないよ」
とっさに口にした言葉は無神経だったかもしれない。 表情をやわらげた久々知くんに、わたしは何も続けることができなくなり、また黙した。 会話のない隙間をうめるようにして吹いた風が、季節の変わり目を知らせた。
「久々知くん」
「ん?」
「……なんでも、ない」
「なにそれ」
低くわらう声は耳に心地よく進入して、鼓膜を振動させる。 わたしはまた何もいえなくなって、久々知くんの隣に座ることしかできない。
「おれ思ったんだ」
窓に目をむけながら、久々知くんはつぶやいた。 わたしが久々知くんに目を向けても、こちらに視線をやらない。
「おれは、きっとさんのこと、」
「!」
開かれた扉は不協和音を奏でてスライドし、わたしは意識をとりもどす。 汗だくになりながらわたしの名前を呼んだのはハチだった。じきじきに教室にきたのは初めてだ。
「え、あ、…ど、どうしたの」
意図せずともつっかえる喉に気が付かないでいてほしいと願う。
「三郎知らねぇ?」
「え、っと知ってるような知らないような……なんで?」
「あいつ賭け金払わねぇの!負けたくせに逃げやがってさー」
最初はいきどおっていたはずなのに、気が付けば彼はまたわらっていた。 そうしてよそのクラスだというのに、遠慮なしにずかずかと足を踏み入れる。 こういう、妙に豪快なところは、彼らしいといえば彼らしい。
「で、知ってるんならおしえ……んおっ!」
と、わたしの目の前にきて、そこでようやく久々知くんの存在に気付いたらしい。 おおげさなほど驚いてみせたハチは、久々知くんとわたしの顔を交互にみやって、バツの悪そうな顔をした。
「あ、悪ィ。お取り込み中だったか?」
「ぜ ん ぜ ん  !ね、久々知くん」
「んん。何も取り込んでないよ」
すこし内容がずれているような気がしなくもないけれど、ここはあえてつっこまないでおこう。 わたしが、はちやくんは屋上にいることを告げると、ハチはげんなりとした顔になって、手近な椅子に座りこんだ。 どうやらこれ以上階段を上る気にはなれないらしい。 手でぱたぱたと自分をあおぎながら、ハチは久々知くんをみた。
「まあ、いーや、うん。ところで――くくち、だっけ」
「ん」
「お前さ、この前の中間、三郎を抜いて一位とった奴だろ」
「……んん?」
さぶろう、と聞いたあたりで首をかしげる久々知くん。どうやらはちやくんのことを知らないようだ。 ハチもそれを悟ったか、一瞬間をおいて、げらげら笑った。
「三郎かわいそう!まるっきり相手にされてねぇ!」
「あのはちやくんが……」
「なんかさ、くくちって奴がオレを抜いたらしい、負けらんねぇ!とかいっててさあ、」
わらいながらはなすものだから、呼吸困難におちいったハチの背中をなでると、くぐもった声で感謝を示された。 久々知くんはというと、それを聞いてもいまいちピンとこないようで、きょとんとしている。 頭がいいということは知っていたけれど、まさか学年一位をとるほどとは思わなかった。
「すごいなあ、久々知くん」
「んん、そうかな」
手を叩いて賞賛するけれども、久々知くんの反応は薄い。 ああ、わたしもこんなふうに一度でいいからいってみたいものだ。 わたしの成績は、悪いわけではないけれども、さほどいいわけでもないというたいそう面白みに欠けるものであるから。
「へえ、お前がくくちなんだなぁ……」
ようやく笑いのおさまったハチが、しげしげと久々知くんを眺める。 それからにかっとわらって、手をさしだした。
「俺、竹谷八左ヱ門!」
「……ん?」
「お前は、久々知、えーっと?」
「あ、うん。久々知兵助」
「へーすけ、兵助な!俺のことはどう呼んでもいいぞ!ハチでもなんでも!」
ぶんぶん握った手をふりまわして、ぱっとはなす。 久々知くんは目を白黒させながら、己のてのひらを見つめていた。
「たけや?」
「いや、名前で」
「はちざえもん?」
「長くね?」
矛盾しているよハチ。 コントのようなやりとりに、こみ上げた笑いを必死にのみこんでいると、久々知くんは目をぱちぱちとさせて、じゃあ、と紡いだ。
「はっちゃん」
「……」
ハチもまた、目を瞬かせて、久々知くんを見つめた。 17になる男の子二人が互いを見つめ合っているというのも、なんだかおかしな光景だ。 傍観者であるわたしがそんな感想をいだいていると、ふいにハチはにこにこと笑い出した。
「兵助、おまえかわいいな!」
そういいながら、久々知くんの肩をばしばしと叩く。
「はっちゃんかあ、はっちゃん……うん、いいな!」
あたらしいあだ名はお気に召したようだ。 さんざん久々知くんを叩いた後は、わたしのほうに笑顔をむける。
「うん、このさいもはっちゃんって呼べよ!かわいいから!」
「い、いや、さすがにもうハチが身についちゃったっていうか……」
「ちぇー」
ふと久々知くんを見ると、いまだにきょとんとしている。状況についていけていないのだろうか。
「あ、ところでさ、」
ハチが話題をかえようとしたところで、またがらりとドアが開かれた。 全員が反応して目を送ると、だるそうに突っ立っているはちやくんがいた。
「お、三郎ちょうどいいところに!」
賭け金はいいの、ハチ。 きれいさっぱりとした笑みで、手招きするハチをいぶかしげに見ながらも、はちやくんはすなおにこちらへやってくる。
「なんだよハチ」
「ほら、こいつ!久々知兵助!」
じゃーんと効果音とともに久々知くんを示したハチ。 はちやくんは久々知くんを見て、むっと顔をしかめた。おお、はちやくんにこんな顔をさせるとは……。 何も分かっていないであろう久々知くんに羨望の視線をおくっていると、はちやくんは腕を組んだ。
「お前が久々知?」
「だからそういってんだろ」
「ハチだまれうざい」
泣きついてきたハチをあやしているうちにも、二人の間に(おもにはちやくんから)火花が散っている。
「そうだけど」
「ふうん……。オレ、鉢屋三郎」
「へえ」
ぴく、とはちやくんの肩が揺れた。あわててハチの背中をたたいて気付かせ二人を指差すと、苦笑いをうかべる。
「よ ろ し く な  !」
「んん。……手、いたい」
みるからに握手する手に殺気が篭っている。 久々知くんはちいさな声で主張するものの、はちやくんは気に留めていない。 い、いじめになりそうだったらすぐとめよう。 固く決意して動向を見守っていると、はちやくんはびしっと久々知くんにむかって指先をつきつけた。
「次は負けんぞ!鉢屋三郎の名にかけて!」
「金田一みたいだな」
「じっちゃんじゃねーし。オレのじっちゃんふつーだし」
ハチの茶々入れに、はちやくんは至極真面目な顔でかえした。しかし目はわらっている。 いじめではなかったようだ。分かってはいたことだけど、ほっとしていると、
「さん」
「ん?」
久々知くんがわたしを呼んだ。
「おれがんばる」
「……う、うん。がんばって」
無表情ながらも拳をぎゅっとにぎってみせた久々知くんに対し、少々おどろいたものの声援をおくった。 いやはや、それにしても、久々知くんの口からがんばる、なんてことばが出てくるとは。 などと失礼ながら思っていると、ふいにのびてきた手が頭を強く押しつけてきた。
「おいこら。オレも応援しろ」
「うぐ……は、はちやくん負けてしまえ!」
「よーしよくいった。表にでなさい」
「あっはっは!三郎、ヤキモチか!」
「ちげぇ!」





(09.04.12)(雷蔵ごめん。出すタイミングがなか…った……)