今日はくくちくんは日直なのだという。 日直は二人一組が原則なのだけれど、部活があるとかいってペアの女子がいってしまったので、とそこまで聞いて、わたしは黒板消しを手に取った。
「てつだうよ」
「んん。ありがとう」
日誌をもったくくちくんは、自席にもどって、シャープペンをとりだした。 わたしは彼に背を向けて、白で埋まっている黒板に目をやった。今日最後の授業は数学で、理解不能な数列がぽつぽつと浮き出ている。 それをこの手で消していくのだと思うと、なんだか心地よかった。数学は苦手なのだ。 高い位置に書かれた文字も、くくちくんに頼らないようにと何度かジャンプして、なんとか消しきる。 さっさと仕事を終えて振り返ると、くくちくんはうつむいて日誌とにらめっこしていた。
「あ、終わったの」
「うん。…書くこと思いつかない?」
「思いつかない。8行も書けない」
むだに広々としたスペースをとっている欄を指でとんとんと叩きながら、くくちくんは眉間に皺を寄せた。 そんな表情をみるのははじめてで、すこし新鮮だった。
「ほら、今日あったこととか…」
「なんにもなかったよ」
「う、うん、…」
わたしまでこまってしまい、なにがあるというわけでもないけれど、くくちくんの手にある日誌をのぞきこんでみた。
「あれ、くくちってこういう字だったんだ」
「しらなかったの」
「え、えへへ」
まだ進級したばかりで、クラスメイト全員の顔と名前を一致させることができない。 久々知、か。ずっとひさびさちとよんでいた。 きれいに整列している文字の羅列をなぞっていって、久々知兵助、という字を脳みそにとじこめる。
「……へいすけくん?」
「……んん?」
「いや、どうよむのかなって。へいすけで合ってるよね?」
「うん」
兵士の兵、助けるという助。 文字だけを追うと、あまり似合っていないようにかんじるのに、へいすけ、という名前はやけに彼の外見にすっぽりとはまった。
「いいね、へいすけっていう名前。かっこいい」
「そうかな」
「うん」
久々知くんはふしぎそうな顔をして、むっつりとだまりこんだ。 どうかしたのだろうかと思っていると、でも、とつぶやく。
「さんの名前すきだよ、おれ」
「……なまえ、って」
「っていう名前」
さきほどわたしがいった内容と、ほぼ同じことを久々知くんは返してきた。 それでも、自分がいわれるとなるとやはり気持ちがちがうもので、頬がだんだんと熱をおびてくるのを感じた。 それを悟られるのがいやで、あわてて話題をうつそうと身振り手振りではなしを逸らそうと奮闘する。
「、いや、そういえばさ、久々知くん」
「あ?」
「え、ええと、うん、なんでわたしの名前、しってるの」
しっぱい。ぎゃくに深みにはまってしまった気がしなくもない。 汗をかきながら、どうしようかと思っていると、久々知くんはわずかに顔をふせた。 彼のながい睫毛が、白い肌に影をつくる。その様が、すこし浮世離れしてみえて、わたしはいっしゅん呼吸をとめた。 薄いくちびるが、そっとひらいた。
「…おなじだと、おもったから」
「おな、じ」
「どこか違うんだ。ほかの子と、おなじようで、ぜんぜんまじってない」
「え、っと」
こちらが困惑したのがわかったのか、久々知くんはいっしゅんことばにつまって、それからこらえたものを吐き出すようにして、いった。
「おれとおなじだと、おもった。おれもほかとはどこか、ちがうみたいだから」
なにそれ、と笑い飛ばせる雰囲気ではなかったし、笑い飛ばそうとも思わなかった。 カーテン越しに聞こえる運動部の声。ボールを打つ音。鳥のさえずり。 外界のすべてがとおくに消えうせていって、この世界がわたしと久々知くん、ふたりだけで構成されているような、そんな錯覚をおぼえた。 久々知くんの表情はうかがえない。知りたくはない。わたしは、いまだ白いままの紙に目をおとした。
「さん」
予想に反し、普段よりもやわらかな声が耳をさらった。 ゆっくりと首をもたげると、久々知くんはわらっているような、ないているような、さまざまな感情がいりまじった表情でわたしをみていた。
「ごめん」
「な、んで あやまるの」
「んん。どうしてかな」











そういって眉尻をさげる、そんなかおをみたいわけではないのに。





(09.04.02)