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「さん」
朝、教室の喧騒の中を、ひくい声が通り過ぎた。
わたしは友人と会話するのをやめ、わたしの机の前に立ったくくちくんを見上げた。
くるんとはねている黒髪が朝日の下に光る。おおきな黒い瞳が、ねむそうなわたしの顔をうつした。
「おは、よう。くくちくん」
「んん。おはよ」
傍らの友人を気にしながら先を促すと、くくちくんは手に持っていたビニールの袋をさしだした。
反射的に受け取って、いま一度くくちくんを見つめると、くびをこくんとかたむける。
「この前いってた。本、とCD」
「わ、ありがとう!」
「帰りだと渡すの忘れちゃうかも、って思って」
なんという気遣い。みょうなところで律儀なのはA型であるゆえんだろうか(つい昨日、くくちくんがA型であると知ったわたしである)
ふたたびお礼のことばを口にすると、くくちくんはわずかに目元をゆるませた。
そうするといつも纏っている雰囲気がわずかに和らいだようで、とても親しみやすい表情になる。
ほかのクラスメイトと話すときも、こんな顔をしていればいいのに、とひそかに思った。
「じゃあ、それだけだから」
「うん。できるだけ早く返すね」
「そんな気にしなくていいよ」
気が付けば、クラス内はしんとしずまりかえっていた。
さきほどまで会話に華を咲かせていた友人はこちらを凝視し、ちょくせつ関わってはいない皆も全員、わたしとくくちくんを交互に見やっている。
なぜそこまで過剰な反応を、と疑問に思い、ああそういえば彼がみんなのいるところでわたしに話しかけたことはいままで一度もなかったなあと思い出した。
そして彼が自分からだれかに話しかけることも。
何事かを聞きたそうなしせんを遮断して、わたしは友人の顔をうかがった。
その飢えた獣のような目を見て、こそこそと立ち上がりいきぐるしい密室を飛び出す。
ドアを抜けるしゅんかん、視界の端にとびこんだ彼の横顔はやはり平然としてちがう世界をうつしていて、すこしばかり憎たらしい。
くくちくんは、なんてめんどうなことをしてくれたんだろう。
変なところで気をつかうくせに、かんじんなところが分かっていないなんて。
授業開始の1分前に戻ろうと決め、わたしは階段付近をうろうろと歩き回った。
周囲をみわたすと、いくらかの生徒が2、3人でかたまったりロッカーから物をとりだしている。
女子生徒の甲高い声や、男子生徒の笑い声などが、わたしが立つ位置よりもずっととおいさざめきのように聞こえた。
世界と自分が切り離されたように感じるときは、いつだって存在する。
たとえば窓からのぞいた景色をひとりでながめているとき、とか。
「ぅ、っわ」
ふいに背中に軽い衝撃があたえられて、わたしはわずかによろめいた。
「わわ、ごめん!」
うしろを振り返ると、おおきなダンボール箱を二つほど積み重ねて持っているひとがいた。
箱が高いせいか、前がよくみえていなかったらしい。
わたしがなおも声を発せないでいると、彼(だぼだぼのズボンが箱の下から見えた)はかがみこんで手に持った箱を置き、わたしを見つめた。
そのなかなか整った顔には焦りがうかんでおり、いたんでいるらしい髪はぼさぼさだった。
「どっかいたいのか!?怪我した!?」
ぼんやりと観察をしていると、何を勘違いしたのかいきなり肩をつよい力でつかまれ、男子生徒Aが迫ってきた。
そのいきおいにおされて、おもわず体をのけぞらせる。しかし彼は気付いていないらしく、なおわあわあ喚きたてた。
騒ぎを聞きつけた生徒が、なんだなんだとこちらに好奇のしせんを向ける。
「悪ぃ、よく前みえなくって…!保健室行こうな!」
「い…いえ、だいじょうぶですから!」
「でも、いたそうな顔して…」
「び、びっくりしただけです!どこもけがなんてしてませんから!」
なお言い募る彼をなかばおしのけるようにして返すと、ようやく得心して手をどけてくれた。
思わずこちらもひきずられてしまいそうな笑顔をぱっとうかべて、よかった!という。
「ほんとにごめんなー」
「いえ、すぐに反応できなかったわたしがわるいので…」
うつむきがちにぼそぼそと口の中でしゃべると、彼はしばらく黙ったのち、ひょいとわたしをのぞきこんだ。
「二年だよな?」
「、はあ」
「なんで敬語つかうの?」
わたしが困っていると、ふいに彼はなにかを納得したように目をほそめて、また微笑んだ。
「俺、竹谷八左ヱ門っていうんだ」
「……たけや、くん」
「名前でいいよ。長いからか、みんなはハチって呼んだりもするけど、俺は犬か、って感じだよな」
意図的でなく、笑みがこぼれた。
いきどおった様子をみせていた彼は、ぶつくさともんくをたれていた口をとじて、うれしそうにまたわらう。
それを見て、胸の奥がふんわりとあたたまった心地がした。
ああ、なんだかこのひとは、存在するだけでひとをあたたかなきもちにしてくれる。太陽のようなひとだと思った。
にこにこしながらこちらを見つめる彼をみて、わたしはあわててことばをしぼりだした。
「あ、わたし、っていうんだ」
「、か。よろしくな!」
向き合ってじこしょうかいをするというのは、むしょうにくすぐったい心地がする。わたしだけだろうか。
ためらいもなくさしだされた手にいっしゅん躊躇して、それからおそるおそる片手をさしだすと、おおきなてのひらに包まれた。
同い年の男のひとのてに触れたのは初めてで、胸がどきどきと鳴った。
「くぉらー!竹谷ー!!早くこい!!」
「あ、やっべ。せんせーに頼まれてたんだった」
2組の教室から身を乗り出してこぶしを振り上げる先生に、たけやくん、……はちざえもんくん?は顔をしかめた。
わたしの方に向き直って、それじゃあな、という。
「は、はちざえもんくん!ぶつかっちゃってごめんね!」
よろよろと進んでいく後姿に向かって声をかけると、顔だけをわたしにむけて、
「なんでが謝るんだよ!」
とおかしそうにわらった。
「あと、ハチでいいよ!」
ああ、思い出した。
たけやはちざえもんって、すごく明るくていつも笑顔で、よくうるさいって怒られてる。2組のひとだ。
まるでくくちくんと正反対の。
彼が太陽だとしたら、くくちくんはその反対側に位置する、月だろうか。
チャイムが、とおくでふるえている。
わたしはぼんやりとその場で突っ立ったまま、ここはどこだったろうとふと我に返った。
(09.04.01)