呼吸を繰り返す音が聞こえた。冷たいてすりに張り付いた指は汗ばんで、頬から首筋にまでつたわる熱は、けっして夏の暑さそれだけのせいではないだろう。 身を乗り出してこちらを凝視している鉢屋くんは、どんな表情をしているんだろう。 わたしは視線を泳がせて、いたずらに時が過ぎるのをただ待っていた。 それで何が解決することもないと分かってはいたけれど、単純にわたしは物事を理解することに苦労していて、そしてその上で認めたくないのだった。
「あの、そういう冗談とか、笑えないっていうか」
うつむいてぼそぼそと呟くと、腕をつよくつかまれた。 反射的に彼の顔を振り仰ぐと、ビー玉のような目がいたいくらいにわたしを見下ろしていて、先程の発言を有耶無耶にすることを許さない。 うそだよ、そう言っていたずらっぽい表情で笑ってほしいと願っている。
「はちや、くん」
「なに」
わたしは迷った。彼に伝えたいことがあるのに、それはいつだってわたしの胸中をめぐっていたのに、いざ言葉にしようとすると、どう表現すればいいのか分からなくなる。 そしてたぶん、つぎはぎだらけのこの気持ちを口にしたところで、鉢屋くんにはとどかないだろうと思った。
「返事は?どうなの」
「……鉢屋くんはわたしのこと、好きじゃないでしょう」
鉢屋くんの瞳がいっしゅんまんまるくなって、ひどく無防備な表情になった。
「なんで」
「や、よく分かんないけど、ちがうなって、思って」
まごつきながらも正直に話せば、鉢屋くんはまたいつもどおりの意地の悪い顔になって、わたしはこういってはあれだけれども、心底ほっとした。 真面目な顔も無防備な顔も、このひとの取り繕わない表情はひどく胸をしめつける。 理由など考えようとも思わないが、きっと今わたしは、ひどく残酷なことを考えているんだろうなと思った。 本当に意地が悪いのは、彼でない、わたしの方だ。
「……うん、好きじゃない、な」
「付き合うって、お互い好きであることが前提なんじゃないかな」
「そりゃそうだ」
鉢屋くんの物分かりがよくてよかった。 わたしが安堵の息を漏らしていると、ぺたぺたと階段をのぼる音が聞こえてきた。 やましいことをしていたわけでもなかったけれど、状況が状況なだけあって、思わず肩を竦ませる。 おそるおそるてすり越しに階下を覗き込むと、大きな瞳とばっちり目が合った。
「くくちく、」
「さん、いったい何やってたの」
太めの眉を顰めてどこか不機嫌そうな声音に返す言葉を、必死に探していると、ぐっと肩を引き寄せられわたしはよろめいた。 横を見ると鉢屋くんの顔から笑みがこぼれている。嫌な予感に胸がざわついた。
「はちやく」
「へーすけぇ、オレたち付き合うことになりましたー祝え!」
「、」
久々知くんの黒い目が大きく見開き、口がちいさく開かれた。 そうして眉尻を下げ、視線をさまよわせたまま、久々知くんはよく聞き取られない声で、おめでと、とつぶやいた。 そのかぼそい声が、わたしの胸をひどく打った。何も言葉を発せないまま、彼はゆっくりと階段を下っていく。


「じゃあ、これからよろしく」
そういって微笑んでみせた彼の顔を本気で殴りたいと思ったのは、これが初めてのことであった。




(10.03.26)(みじかい)