久々知くんの夢を見た。わたしに向かって静かに笑いかけている、ただそれだけの映像であった。 おそらくメッセージ性もなにもない、過去のある点において切り取られた、わたしの記憶の一部だろうと思われる。 目覚めた瞬間、ハチのせいだと毒づいた。あんな勘違いされて、意識しないはずがない。 そうでなくてさえ、彼のことが脳に焼きつかれてたまらなかったというのに。


そしてすこし、泣いた。




久々知くんの微笑みは、あまりにおだやかだった。












朝、腫れぼったい目をこすりながら登校したわたしの横を過ぎるものがあった。鉢屋くんである。 すれ違いざまに腕をつかまれ、強引に引かれた。 拒否の言葉も姿勢も意に介さない彼に抵抗できるはずもなく、真面目な生徒Aであったはずのわたしは、最近では授業をサボタージュする乱れた生徒の仲間入り状態である。 別段不真面目な人間扱いをされることを構いはしないのだけれど、ただ、久々知くんはそんなわたしを快くは思わないだろう。 彼は真面目だ。どんなくだらないことも、何故と問い、懸命に答えを探しだそうとする。 その姿が、たまらなくまぶしかった。思わず目を背けてしまいたくなるほど。
「鉢屋くん、」
そうして見上げた彼の背中は、いつだってほの暗さを背負っていた。そう思われた。そう感ずるのは、わたしだけなのかもしれない。 てのひらの力は強く、爪が食い込んで痛みを覚えるほどのものであった。その無骨な手を払いのけることなど、できるはずもなく。










機嫌が悪い日は、鉢屋くんはいつもひとりきりだった。 ハチも雷蔵くんも、それを理解しているからこそ、遠くで見守り、わたしと久々知くんは、そんな彼らをぼんやりと眺めている。 否、きっと久々知くんも何かしらを理解したうえで、そのような行動をとっているんだろう。 わたしは、なにも分からない。分かりたくもない。そうしたら、己の無力さ未熟さが露呈されてしまうから。
「はちやくん」
舌をかみそうになって、思いのほかおさない声がこぼれた。鉢屋くんはなにも答えず、ただ腕を掴む力を強くした。 わたしは、なにも分からない。彼がどういったものを求めているのか、欲しているのか、分かったところで、はたしてそれを与えられるのだろうか? この感情は、同情でもなく、まして恋でもなかった。ある種の親近感といってもいい。 救いたい、などと身勝手な思考はもとより持ち合わせてはいなかった。
「兵助と、付き合ってるって」
ぽそりと漏れた声は、静かな校舎内で否応なしに響く。わたしは口をつむぐ。いったい誰が早合点したのか。 否定の言葉よりもまず、そのことが気にかかった。もしもハチ、雷蔵くんであったら、いや、まさかそれはないだろう。彼らは信用がおける。 頭の中で浮かんだ様々なものを打ち消して、わたしは違うと答えた。
「だれとも付き合ってないよ」
「ふうん」
鉢屋くんの足は長い。それがせっせと前へ進むのだから、追う形となっているわたしは当然駆け足になり、早くも息が切れかけていた。
「だれがそんなこといってたの?」
「さあな」
「もう……」
「カンケー、ないんじゃないの」
え、と聞き返す前に、鉢屋くんは立ち止まっていた。屋上へと続く長い階段の途中、怖いほど静かな表情が、わたしを見下ろす。 何者も映さない茶色の瞳に肌が粟立ったのは、吹いた風がつめたかったからだ。
「、兵助のこと好きだろう」
一瞬にして顔が熱くなったのが、嫌でも分かった。それとともに、鉢屋くんの眼光が鋭くなったことも。 その射るような視線から逃れたいが一心で、わたしはうつむき、ちがうよ、とつぶやいた。自分自身ですらよく聞き取られない声であった。 ちがう、と。そうでありたいと思っている。気付いたのだ。わたしのような女は、もともと久々知くんに触れてはいけなかった。 きっとそうでなかったら、わたしはこんなみじめな思いをせずにすんだのだ。 きっとそうでなかったら、久々知くんは久々知くんの世界を構築して、そこの住人となるはずだったのだ。すべてわたしがこわした。
「好きじゃない?」
「好きじゃ、ない」
今度こそ顔を上げていうと、ぐっと鉢屋くんの顔が近づいて、わたしは身を固くした。 三日月形に切り取られた瞳が言わんとすることは、わたしにはつかめず、身を乗り出すようにして顔をのぞきこんでくる鉢屋くんを、なんとかおしとどめた。
「ど、どうしたの、鉢屋く」
「じゃあ、オレと付き合って」
ぽかんと呆けてしまったわたしに、再度彼は繰り返した。
「オレと付き合ってよ」




(09.06.20)(これはひどい)