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揺らぐ面影はなにを追うのか、皆目検討もつかないことばかりだ、この世の中というものは。
逃げ水のようにつかみどころのない。
あるときはかげろうのように儚く、あるときは手負いの獣のように警戒心をむき出す。
それでいてみにくくうつくしい。
ああそれはきっと不条理で、ほんとうはだれの手にもありあまっているんだろう。
いくらこぼれたってひとつも拾うことなどできない。
落としてしまったらそこでおわるんだ。
「ええと……くくち、くん」
わたしは案外するりと脳の奥底から飛び出してきた名前を口にした。
一方彼はわたしの声にいっしゅんびくりと肩を震わせて、うかがうようにこちらを振り向いた。
地平線の向こうがわへと沈む日に照らされて、朱色に塗りたくられた顔は、いつもより健康的に見える。
瞳をぱちくりと見開いて、彼はじっとわたしを見つめ返した。
女子にも負けないような、黒く大きな二つのそれは、わたしをひどく緊張させた。
「なにやってるの」
「んん、なにっていわれても」
こんどはくくちくんのほうがわたし以上に困った顔をして、視線をそらした。
「ただ外をみてただけ」
「あ、……そう、なんだ」
ふたたび窓の外へ意識をうつしてしまったクラスメイトにこれ以上かける言葉も見つからず、わたしは自分の席に歩を進めた。
表紙の破れかけた教科書をひっぱりだして、一年ほど愛用しているカバンにつめこむ。
机の中をもう一度確認してからなにげなく顔をあげると、体ごと反転してわたしの姿をとらえている双眸に心臓がいやな音をたてた。
「さんって、いつもうしろのほうの席だよな」
「ええと、うん、まあ」
「羨ましいな。目いいの?」
「あんまりよくないけど、コンタクトしてるから」
そっか、と納得したようにうなずいて、くくちくんはすこしゆるいくせのある黒髪をかきなでた。
「おれ、コンタクトこわいんだ。あんなおっきなのを目の中入れるってのがどうしてもさ。すごいなさんは」
「わたしも最初はこわかったよ。だんだん慣れてきたけどね」
それにすごくなんかないよ、とわたしは苦笑した。
ぎゅうぎゅう詰めのカバンを背負って立ち上がる。
「それじゃあ、わたし帰るね」
「うん」
くくちくんは始終変わらず無表情で、片手をかるく上げた。
わたしも手をふって、ドアをゆっくりと閉じた。
「またあした」
脳を揺さぶるような、テノールの響きがこびりついたまま。
(09.03.11)