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デートの基本、その一。待ち合わせ場所には三十分前から来ること。
この鉄則を、俺はプラス二時間して実行に移した。
さすがに朝八時半からずっと噴水を背にして直立不動のまま立っていたのは、やりすぎたかもしれなかった。
やはり通りすがりの老若男女問わぬ全員に不審な顔をされた。だが構わない。
愛する恋人のためなら、多少の苦労も厭わないのが、男というものだ。
デートの基本、その二。時間通り、若しくは遅れて相手が来て、ごめんね、待った?と聞かれたなら、まるで空を見上げるかのような気軽さで、いや、来たばかりだと答える。
俺は己が鉄の仮面を被っているんじゃあないかと錯覚するくらい、何の面倒もなくこれをやってのけた。
少し頬を緩める余裕さえあったのだ、我ながらこれは完璧ではないかと、自負してしまうほどのものであった。
しかし、何故か俺の顔を見上げたは、小走りに来たにしては尋常でないほど顔を赤らめていた。
熱でもあるのではと心配したところ、異様なほど慌てて首を振っていたのが気がかりだ。
出会って数十秒も経っていないのだが、何かまずいことでもしてしまっただろうか。
デートの基本、その三。まずは彼女のペースに巻き込まれ、それから徐々に自分のペースへと持って行く。これで女の子のハートをゲットだ!
まったくこれが基本というのだから、恋愛というのはなんとも難しく、奥深いものである。
このような芸当が、果たしてこんな俺にでもできるものかと疑ったこと数知れず。
ともあれ先日購入した本がそう書いているのだから、これも実行せねばならんのだろう。
何しろ世間の男女はこういう駆け引きを気軽にやってしまうのだから、国という括りに入る自分だってそれくらいできるはずだ。
さて、おそらくこのデートとやら、俺の不器用さがいかに足を引っ張るか引っ張らないかによって、大きく左右されるに違いない。
ともなれば、ここはなるたけボロを出さぬよう、常に神経を張り巡らせているに限る。
そう考えた俺は、以上のことを心がけ、周囲を油断ならぬ目で眺めながら、と一緒に大通りを歩いていたのだが。
それにしても、通行人の視線が気にかかる。
ここは、都市ベルリンである。
俺のようなガタイのいい男などいくらでもいるはずなのだが、何故こうも周りの視線が痛いのだろうか。
知り合いでもいるのだろうかと辺りを見回しても、そのような影は見当たらない。
とすると、この絶え間ない視線は、赤の他人から発せられているにほかならない。
では何故……もしや、俺の成功(する予定)を妬んでの僻みか。
それとも、お前の恋愛などぶっ壊してやるぜ!という嫌味根性むき出しの悪漢が隙を窺っているのか。
まさか、それこそ冗談ではない。
今日の約束を取り付けるのに俺は三週間程時間と労力を費やしたのだ、その結晶を潰されてたまるものか。
判断を下した俺が、続けて油断なく周囲の気配を探っていると、くいと袖を引っ張る指があった。
振り返ると、半歩程度斜め後ろを歩いていたが、ぎこちない笑みを浮かべている。その笑顔は、どことなく蒼白な気もする。
「あの、ルッツ、どこか喫茶店にでも入らない?」
なるほど、敵を迎え撃つのか。たしかにそのほうがターゲットが絞られ、的確に相手をやれる。
さすが、菊の友人なだけはある。
俺が頷くと、はほっと息を漏らし、俺の裾を掴んだまま、手近な扉を押した。
店内は休日の昼時であるせいか、それなりに混んでいた。
どうにか空いていた窓際の席に腰を下ろすと、は俺に顔を近づけ(とっさに身を離そうとするのを堪えたのは、偉い)(特訓のおかげか)、心なしか声を小さくした。
「ルッツ、どうしたの?なにかあった?」
「何もないが。お前こそ、顔を赤くしたり青くしたり忙しないな。どうかしたのか」
「そ、それは……」
質問を質問で返すのって、よくないよ。そう言っては俯いた。
それはそうだな、と俺は納得し、質問に対する答えを模索してみたが、そもそも今日あったことというととデートをしているというできごと、しかも現在進行形で流れていることだけなので、どうとも言いがたい。
そもそも、はどういった意図を持ってしてこの疑問に及んだのか。
頭を悩ませていると、同様にも困った顔をしていた。さらにハテナが飛び出してくる。どうしてお前が困るんだ。
「気付いてないのかな……ルッツ、なんか殺気みたいなの周囲に飛ばしてるよ。すれ違う人みんな怯えてたよ」
「……」
だから視線が痛かったのか。
なんとも言えず、微妙な面持ちで黙りこくっていると、絶妙なタイミングで店員がやってきた。
コーヒーを二つ頼んで、はまた俺に体を向ける。
「体調でも悪い?だったら、帰ろうか?」
優しく問いかけられ、いや、と首を振った。
先程も言ったように、俺はこのデートのために三週間も準備をしていたのだ。
それが、俺の体調不良などという、よく分からん理由で台無しにされてしまうのはまっぴらであった。
それでもが不安げな表情を崩さないので、ここは何か言っておくべきか、と思案しながら重い口を開く。
「…その、少し、緊張していたようだ。すまない」
「え、っと、あ、そう……なんだ?」
「ああ。だから帰らないでくれ」
なんとか自分の思いを伝え、相手の顔をじっと見つめると、は湯気を出す勢いで頬を赤くした。
「どうした、やはり熱でもあるのか」
「ルッツ、それ反則……」
「どういう意味だ」
「うう。鈍感め……」
鈍感。俺のことか。
フェリシアーノには、ルートってめちゃくちゃ鋭いよね!すっごーい!などとよく褒められるのだが、あいつを常識に当てはめてはいけないのだな。
暫く首を捻っていると、もういいよ……と困ったように呟かれた。
しまった、呆れられたかと若干焦りを覚えるものの、驚いたことに、は未だ頬を染めつつも、満点の笑顔を見せた。
「わたし、ルッツのそういうとこも好きだから」
次の瞬間、俺はうっかり手を滑らせ、持っていたコーヒーカップを床に落としてしまった。
割れてしまったティーカップもそうであるが、何より静まり返ってしまった店内と、好奇心に満ち溢れた大衆の目が気まずい。
俺はとっさに立ち上がり、の手をとって店内を出た。
カップ代を弁償しようと申し出たが、小柄な店員はぶるぶると大げさなほど首を振るので、仕方なくチップを多めに置いておいた。
賑やかな大通りを歩きながら、ふと我に返った俺は、しまった、なんてことをと思った。性急な自分の行動を心の底より恥じた。
まさか、この俺が、こんな感情的に動いてしまうだなんて、自分自身夢にも思っていなかったのだ。
しかもどさくさに紛れて彼女の手に触れてしまった。
未だ繋がれたままのそれは、今更切り離すにはあまりに強く握られてしまっていた。俺の手によって。
(ああ、なんということだ。自ら予定を狂わせてしまうだなんて!)
いっそ頭を抱えたい心地であった。
敵はそこらに潜む悪漢ではない、自分である。精神が鍛えられていなかった……俺は自惚れていたのだ。
どのような不測の事態にも顔色一つ変えず適時的確、臨機応変に対応し、望みを見事達成する。
それこそが俺のモットーであったというのに!
唇を噛んでいると、ルッツ!と彼女の声が背中にかかる。
さすがに今は振り返ることなどできなくて、俺は前を見据えたまま、何だと出来るだけ動揺を抑えて尋ねる。
弾んだ声がそれに答える。
「恋にマニュアルなんてありません!」
思わず立ち止まっての顔を見やると、首をかしげて悪戯っぽく笑った。
「だから楽しいんでしょ、ダーリン」
a suo beneplacito
(09.01.12)(独夢なのにタイトルが伊語という^^)